座右のニーチェ (光文社新書) [新書]
ベストセラー声に出して読みたい日本語 [単行本]
以来、毎月のように本を執筆し、私塾や講演、果ては報道番組のコメンテーターなど、斎藤孝氏の旺盛な活動振りにはいつも感心している。そんな斎藤氏の著作は、氏の体育会系な性格が遺憾なく発揮された、読者を元気にさせるようなものばかりで、かく言う自分も何冊か愛読している。
その中で、今回の本は、自分が氏の著作を何冊も読むきっかけになった作品であると同時に、ニーチェそのものに対しても深く傾倒する契機となった作品でもある。
世にニーチェ入門を名乗る本は数多く氾濫している。
つい2、3年前も、某超訳本が百万部を超えるベストセラーになった。
ニーチェほど、解説者の個性が、場合によっては恣意性が露わになる思想家はいない。同じ言葉を引用して論述しているはずなのに、解説者のスタンスで本の性格は大きく変わる。上に挙げた某超訳本の著者のように、かつて口汚くニーチェを罵っていたような人間にさえも解説本が書けてしまうのである。
そんな出版状況の中で、『座右のニーチェ』は、解釈そのものが独創的というわけではない。専門外の人間による解釈なのだから当然といえば当然かもしれないが、時には「ちょっとそこ違うんじゃないの」という解説もある(特に永劫回帰の解釈)。しかし、それにも関わらず、この本が自分を引き付けるのは、著者のニーチェに対するリスペクトの高さである。
「ニーチェは私の生涯の友である」とまえがきで断言し、日々如何にニーチェの言葉をそらんじ、血肉化し、活用するかを熱く語っている。その、時に引いてしまいそうになりそうなほどのパトスが、読んでいて心地いい。
著者の専門である教育や呼吸法になぞらえて語られ過ぎているきらいもあるが、それがニーチェを語る者の避けられない道であると分かっていれば、それほど気にならない。
別の著作で、斎藤氏は、「古典は積極的に使うものである」と言い切っており、そのスタンスはこの本の中でも一貫している。古典を神棚に押しいただくのではなく、身体に血肉化し、「技」化するというのは、古典を語り継ぐ上で、大事なことだと思っている。
ちなみに、この本の中で一番ぐっときた言葉は、実はニーチェの言葉ではない。ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫) [文庫]
より。
「われらは実に朋友を得る幸(しあわせ)を讃(ほ)め称(たた)える。自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過(つみとが)のない生活を楽しんで、犀(さい)の角のようにただ独り歩め。」
ブッダの言葉としては意外なほどの力強さが、印象的であった。(H)