神を哲学した中世: ヨーロッパ精神の源流 (新潮選書)
神を哲学した中世: ヨーロッパ精神の源流 (新潮選書)

基本的には、西洋哲学史において、古代ギリシア哲学と近代ヨーロッパ哲学との間は、キリスト教による学問的停滞の時期であるというのが近年まで支配的だった。キリスト教の教義や教会のヒエラルキーに反する思想は異端の烙印を押され、処刑されるかのようなおどろおどろしいイメージを昔の自分も抱いていた。
そんな自分にとって、本書のタイトルはなかなかに魅力的に思えた。

まず、古代から中世への歴史的背景から説き起こされる。
キリスト教がローマにおいて国教となったのち、時間をかけてヨーロッパに布教していくうちに、ひたすら神に祈る修道士の姿勢が、中世の精神的土壌を形作っていく。
また、十字軍の前後にイスラムから逆輸入されたアリストテレスの自然学・論理学などが、ヨーロッパ知識人の学問的意欲を高め、各地に建てられた大学で盛んに議論が行われていく。
そして、信仰と(プラトン的に解釈された)アリストテレス哲学との出会いによって、神学が誕生し、トマス・アクィナスやドゥンス・スコトゥスなどの大学者が登場する。

次に、それらの著名な大学者の著述に言及しながら、実際に彼らがどのような思索を繰り広げたのかが紹介されている。
その内容は、有名な普遍論争(「普遍」とは実体か名目か)だけでなく、運命と偶然、理性と感情、主観と客観などの哲学的命題、神の受肉などの教義の証明から、遺産相続、商売や金融業の是非などの一般社会に至る問題まで雑多に渡る。
それらを通して理解できるのは、ヨーロッパ人の精神構造が、いかに自分に理解しがたいものであるかと言うことである。とりわけ、神の似姿として作られた人間においてはまず理性が備わっているという前提は、感情や身体の重要性を身にしみて理解している日本人には受け入れにくいものではなかろうか。

そうはいっても、この辺りまでは比較的興味深く読めたのは確かである。
もともと「ヨーロッパ精神の源流」について知りたかったのであるから、その目的は達せられたといえる。
しかし、後半の、信仰がぶれないように力説する神学者についての記述は、正直うんざりしてしまったため、さっと読み飛ばしてしまった。(H)